高校国語が「文学国語」と「論理国語」とに再編成される というニュースをみました

「論理国語」とは何?というところで????となりました

私の国語の授業の記憶によると 長文の文章を読んで

「主人公はこの時どう感じたと思いますか」とか

「なぜ主人公はこの時***という行動をとったと思いますか」などの

設問に答えたり

感じたことをみんなが色々と想像できるような表現力豊かな文章を作るのが素晴らしい作文だと

評価されるというのが国語の授業だったと覚えています

この今までの授業のような国語が「文学国語」というもので 

「論理国語」とは考えたことや伝えたいことを「論理的」に文章にする といったことを意味すると思われます

つまり 文章の書き手は 読み手が誤読しない一義的で論理的な文書を書かなければならず

読み手はその文章の文脈をよみとるのではなく まず書いてあることを

その通りに理解する ということを要求される という基本能力を培う国語を学ぶということのようです

確かに 社内共通語が英語である会社があったり 従業員も日本人とは限らない会社が多くなってきている現状を見ても

それは必要なことだと納得するところであります

以前の事ですが 私共の事務所で スタッフに報告書の書き方を指導するのに

「言語としては日本語で記載してよいが 英語を頭の中において文章を書いてください」といったことが何度かありました

すなわち 主語 述語 目的語等を明確にして 報告書や記録が読む人によって色々な解釈をされることがないように

注意してください ということだったのですが

「論理国語」という言葉は知りませんでしたが まさに「論理国語」を・・というのは

このようなことを言っているのだと思います

今までの日本語(文学国語)では その集団における共通の暗黙知をもって 

「察したり」「忖度したり」することができなければ 

意図や目的は通じず 情報も共有されず 組織は円滑に回らないということであったと思います

すでに人材も働き方も多様化してきている現在 

「そこのところ言われなくてもわかってよ」とか「よく気が付かないと一人前とは言えないよ」などは

確かに過去の遺物 昔の物語の中での言葉 になりつつあることは間違いないと実感します

「論理国語」を学び 誤解される余地のないジョブ・ディスクリプション(職務記述書)をもちいることが

普通になり 社内言語として定着すれば 

ひょっとすると社内共通語は英語である必要ばなくなるかもしれないなどと想像しました