少しご大層なタイトルをつけてみました。別に宗教について語る気は全くないです。

 

さてさて。英語で才能のことをgiftと言うことがあります。普通に日本語でギフトというと単なる

贈り物のことです。

恐らく、キリスト教という文化の中では何かに秀でた才能をもつというのは神様にその才能を

与えられたみたいな風にとらえるのでしょう。それでgiftは才能という意味も持つようになりま

したと。才能とは神の寵愛といえるのでしょう。

残酷ではありますが、努力と結果に高い相関関係はあれど、それは完全相関ではありません。

理由は至極明快で、才能が違うから。

きっとスポーツにまじめに取り組んだことがあるのなら分かるはず。同じように部活動に真面

目に取り組んでいても、最終的に個々人の技術的巧拙には大きな違いがでてきます。

僕がダルビッシュと同じように野球に取り組んでもきっと僕はメジャーリーガーになんてなれ

ないみたいなものです。

 

さてさてなんでこんな話をしているかと言いますと、僕は最近知ったのですが、筋肉をつける

才能が絶望的にないようです。体には大きく3タイプありまして、太りやすいけど筋肉も付きや

すい人、太りにくいけど筋肉も付かない人、その真ん中の人です。

 

筋トレ雑誌のチェックボックスを集計した結果、僕は2番目のタイプであると発覚しました。一方

僕の父は恐らく3番目の中間タイプ。父もジムに通っていますが、僕ほど真剣に取り組んでいま

せん。だがしかし、僕より筋力は上…

 

何がいいたいかといいますと、僕には筋トレのgiftはない。つまり神の寵愛を一ミリたりとも受け

ていないということです。自分の趣味としていることに才能がないというのは悲しいことですね。

 

笹谷