昨年初めての孫がうまれました

おばちゃんからのプレゼントとして ずっと残るものを と思い 絵本をプレゼントしつづけようと手続きしました

童話館ブッククラブというところに申し込むと 年齢に応じた絵本が配本されます

それと同時にブッククラブ通信というのが配本のお知らせと一緒に送られてきます

それの12月の「通信」に「工業化へまい進する時代に、古めかしくて経済効率の悪いケーブルカーを守った人たち」という記事がありました

それは ブッククラブ2月配本の9~10歳対象の「坂の街のケーブルカーのメイベル」という本の紹介です

記事の抜粋をします

(あらすじ) サンフランシスコの街をケーブルカーが最初に走ったのは1873年でした。依頼、メーベルと仲間のケーブルカーは、「この街がちいさくて、みんなが たがいに顔見知りで、だれもがおだやかで、のんびりしていた」ころから、「だれもが せかせかして、だれもが、いらいらしているように見える」ころまで、サンフランシスコの街とともに歩んできました。メイベルはそんな日々を、よろこびを持って過ごしてきました。

けれど、世の中では工業化が進み、自動車が走るようになり、ケーブルカーは路面電車やバスに取って代わられるようになりました。やがて、市議会でケーブルカーの廃止が議題にのぼります。

それを知った街の人たちの中から、ひとりの女性の声にうごかされて、廃止に反対する運動が生まれ、その是非は住民投票に委ねられることになったのです

「坂の街のケーブルカーのメイベル」が子供たちに温かく迎え入れられ、大人たちの静かな支持を集めるのは、なにより、メイベルの誠実な人柄と、メイベルの、自分の仕事を愛し、自分が働く街を愛し、街の人々を愛する気持ちがつたわってくるからです

どんなに 坂道がけわしくても、どんなに 乗客が込み合っていても、いつも ほがらか。いつも しんせつ。メイベルは、かねをならし、歌をうたいます。朝早くから、夜おそくまで。夜おそくから、朝はやくまで・・・・・・。

メイベルを、はなから見下げている、バスのビッグ・ビルがこう言います。

「市会議員さんたちが、こんなはなしをしていたな。”ケーブルカーは 廃止しなくてはならん。ケーブルカーは 古すぎて 時代おくれ”

市会議員さんたちによると、なかでも、一番よくないのは、お前さんたちは、お金をもうけられないことなんだって。市会議員さんたちがのぞんでいるのは、新しさとはやさ、そして安上がりなこと。つまりぼくtがちさ」

バスは効率的で便利ですけれど、雨の日や雨上がりの日に、サンフランシスコの街の坂を上がったり下がったりすることには適していません。だからといって、バスも、トロリーバスも、路面電車も、みんなケーブルカーに戻ればよいということではありませんね。新しいものと古いものの良さを分け合って、それぞれの役割をはたしていくということでしょう。

そして、そのとき、分け合うものは物理的な役割だけではありません。効率優先でないもの、古いもの、シンプルなものが、こつこつと誠実に働く姿によって、醸し出していく空気のようなものがあって、それが、人々の精神に必要なのだと思います。

そのことが、ケーブルカーの廃止に反対する人たちの、ケーブルカーの廃止に反対する人たちの、次のような表現に託されています。

(ケーブルカーを残すことに)「反対」の人たちが、ケーブルカーの 経営の実情を 数字で訴えると 「賛成」の人たちは、急こうばいの坂道のことや、数字だけでははかれないケーブルカーの良さを主張しました

メイベルの構造と働く仕組みが、子供たちの理解の手の届くところにあるように、昔、機械とは、そのようなものでした。

洗濯機が壊れると、電気屋さんに修理をしてもらいました。今は、「買った方が得ですよ」と言われることが多くなりました。

コストに合うようには修理ができないことと、複雑な部品が使われていて、電気屋さんにも修理ができないほどになっているからではないでしょうか。

目に見える技術から目に見えない技術へ発展してきたのですね。もちろん、機械の仕組みが、目で見てわかるレベルでは、高度に人間の役にたつ機械をつくることはできません。私たちは、テレビがどんな仕組みで映るのおかしらなくても、利用することができますし、インターネットの仕組みをわかる人は、まずいないでしょう。

でも、そのことは総体として、科学と技術が人間を遠く離れて自己目的的に、また、人間の、より便利により面白くという欲望のもとに、進化を遂げていることを意味しています。そのような技術は、特殊な技術によってしか制御できないものになっていくということです。

機械文明と科学技術の発展がもたらす、社会のあらゆる場面での効率化の優先によって失われていくもの、そして、新たに病んでいくものへの警告を、(作者の)バートンさんは、早くも1952年のアメリカにて提起されていました。

さて、市議会でのケーブルカーの廃止の計画がもれ聞こえてきたとき、街の人たちの反応は次のようでした。

ある人たちはいいました。「それは、こまった。ケーブルカーがなくなるとはざんねんだ。思うに、それが進歩というものなんだろうよ」 ほかの人たちが、ためいきまじりに いいました。「わたしたちの街から、ケーブルカーがなくなるんですって? ほかの街とかわらなくなるわ」

ここには、ふつうにケーブルカーに親しみを感じている、平均的な市民像がえがかれています。

そして、議会や行政によって決められることには、「仕方がない」「世の中、そんなものだろう」と、物分り予行、自分の感覚を明け渡していく市民像でもあります。(作者の)バートンさんが作家としてぬきんでているのは、このような、人々の真の姿をとらえ、それを、子どもの物語の重要な柱として語りこんでいることです。

私たちの国では、ほとんどが、このようにして、公共の物事が進んできているのはないでしょうか。たとえば、干潟を埋め立てる。大規模なダムをつくる。高速道路をつくる。空港をつくる。原子力発電所をつくる。あるいは、歴史的に貴重な建物を壊す・・・というときに。

すると、ひとりの女の人が言いました。「どうして、そうなると きめてかかるの?わたしたち市民の一人ひとりが、この街の主役ですよ。どうして、私たちで きめられないの?」

ひとりの女性の明快な態度の表明によって、市民がたちあがっていきます。

「仕方がない」「世の中、そんなものだろう」と進行する路線を、早々と受け入れていくのも私たちですけれど、「変だな。いやだな」という、なんとなくの気運が、自覚した少数の人の言葉や行動によって、覚醒されていくのも私たちです。そのことをバートンさんは、このように知らしめてくれます。

それでも、路線を進行する市会議員たちは、「いやはや、なにを おろかな。はなはだ、現実ばなれした話ではないか」 と歯牙にもかけません。

私たちの国で、原子力発電所の建設に反対して立ち上がった人々は、議会や行政からだけでなく、地域社会の人々からも、そのような言われ方をしてきたのだと思います。

サンフランシスコの街の人たちは、住民投票による決定を求めて、見る間に、議会への請願に必要な署名を集めました。それから、広報活動に忙しく動きまわり、討論会を企画しました。それは、ケーブルカーを廃止するのに賛成と主張する人々も同じでした。

ある人たちは、ケーブルカーをのこすのに 賛成といい、ある人たちは、反対といいました。どちらでもいいとか、どちらかわからない、という人はいませんでした。

それにしても、この表現は、今を生きる私たち日本人の胸をつきます。・・・・・仮に、原発の再稼働を問う住民投票が行われたとして、「どちらでもいいとか、どちらかわからない、という人はいませんでした」となるのでしょうか。

さて、こうして、三フランシスコの街の人たちは、喧々諤々、意見を闘わせたあと、静かに住民投票の審判を待ちます。その場面は、開票の経過が刻一刻と掲示板に書き込まれながら、見開き4頁にわたって展開されます。

バートンさんに導かれて、両方の陣営の濃密な運動と議論を、ともに体験してきた読者である子供たちもその結果をかたずをのんで待っています。

審判は下りました。ケーブルカーを残す方が三対一でかったのです。

カッコいいのは、市会議員たちの対応です。 民意である住民投票の結果を潔く受け入れ、ケーブルカーを存族させることを決めます。それだけではなく、メイベルたちの車体のペンキを塗り直し、おまけに、毎年「ケーブルカーの日」を設けて盛大なお祭りをするというのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

少し長い紹介になってしまいました

この本は10才くらいの子供対象の配本だそうですから ウチの孫にはまだまだ先の話です。

しかし、この通信をみて、ブッククラブの配本を申し込んだことが とてもよかった とおもえました。

いくら本が手元についも 遊びにあるいはゲームに夢中でよんでくれないかもしれませんが、しかし説教するのではなく また「勉強しなさい」と強制するのでもなく、ふっと気が向いたときに手に取った本が大人になって甦る ということがあります

このような良質な本を身近にできる ということに一役買えたかな とおばあちゃんは何か大切なアクションの一歩を踏み出せた と一人満足しています