最近のニュースで 例えば ウクライナ侵攻との闘いは 民主主義と専制主義の戦いともいえる

といった言い方で 民主主義という言葉が以前よりよく使われているように 感じます

おおむね 民主主義の社会では何かを決定する際に独裁的リーダーの一存で決定されるのではなく

みんなの話合いで決定され それが望ましい社会の在り方である という意味合いで

「民主主義の世の中では」 というように用いられているように思います

社会の制度として民主主義がベストなあり方かどうかの議論は差し置いて

「話し合いで決定」という話し合いが本当に成り立っているか ということの吟味も

同時にしておく必要があると思います

特に日本語は主語がない言語 といわれたり 情緒で会話する といわれたりするように

曖昧な言葉を曖昧に使用し、その曖昧さをもって人間関係の潤滑油とし

たとえ論争になっても 深く対立したりギクシャクすることなく 

ふんわりまぁるく解決してしまう というところがあるように思います

それはそれで日本の文化の側面で 激しく言い争うとか 大声で政治談議をするとか

外国ではみられる普通の場面が日本ではあまりなく

もしそのようなことがあったときには「もう最後」くらいのイメージになってしまうというくらいの印象になっています

そのような場面をして 外国では学校でディベートをするといったことが行われているからとか

発表するときはっきり自分の意見を言う習慣があるから(日本も教育の現場で実践すべき)とかいろいろ言われてもいます

私は日本で(それも京都で)生まれ育った人間ですから 曖昧な言い方で穏便に話をするという会話はキライではなく

むしろ 何でもはっきり言わないと通じないという方が文化度が低いとくらい思っているところがあります

しかし それは日常生活でのことで 

はっきりと言わなければいけない場面は(特に大切な場面で)たくさんあるということも理解しています

国際的な議論の場や学問的な主張や議論の場は当然ですが 政策を決定するような場面でも当然でしょう

新しい法律や基準においてもこの曖昧さが残されており 解釈論で同じ法律が違った意味を付加されるということも

この曖昧さを残す言葉や言い回しがしみついてしまっていることが影響しているのではないか とさえ感じています

私は大学院で博士論文を書いている時に いかに言葉を曖昧に感覚だけでまき散らしていたか ということを痛感しましたが

やはり大切な場面や大切な約束事については 使用していることば(用語)の定義をしっかりと示し

お互いに誤解が生じないような努力をすることがもっと当たり前にならないといけないと

色々な意味で危ないと思っています