豊かさを測る指標
日本はバブル以降 長い間景気が停滞し続け そのトンネルから脱出できていない などとよく言われます
好況になって社会全体の景気が拡大しないと 単純に一人ひとりの所得が多くなれば豊かになれる などという事でもない という事も
実感としてわかるようになりました
以前は一億総中流などと言われていたのに 今は一部の富裕層の人たちを除いてたくさんの人が貧困にあえいでいると言われても納得の気分になります
バブル崩壊の直後も現在も常に経済成長し経済社会のパイが拡大しないと人々は豊かになれないと いつも大きな声が上がっていました
その時私はこの掛け声は量的な事のみを指しているわけではない もっと質的な豊かさも目標となるべきだと思っていました
昭和の時代のように みんなが便利な家電製品を持てなかった時ならば 量的に豊かになり便利な家電に囲まれ時間的なゆとりを得られることは
量的な所得の拡大は豊かさと比例すると単純に実感できたところですが
そのような物質的な部分が満足してしまった後はそのような物質的な面では成熟期が到来しているから 量的な意味での経済成長にだけこだわるのではなく
質的な文化的精神的な充足も求められてしかるべきではないか と思っていたのです
量的な拡大と質的な充足は目標が違うので 同じ施策でよいわけがない などと思っていたのです
ここで質的な意味も含めて豊かさを実現するための施策を考えるにあたって
国内や国家間だけの問題としてだけでなく 人類として持続可能な社会を構築するためには 「豊かさ」を測る指標が求められます
個人の福祉(幸福)を足し合わせる評価方式(総和主義)や
個人の福祉を加重平均で計算し評価する方式(平均主義)など
色々な方式が論じられています
それぞれ極めて貧しい生活を送る膨大な人が存在する未来の方がよいとされてしまう とか
悲惨な人生を持つ人が加わる方がそうでない場合より良い結果になる とか
多数派と少数派の利害が絡む場合とか
豊かさの評価は難しくなる と論じられています
これらは 数学的な指標をもって評価しようとするから 色々な矛盾が超えられないのではないか という気がします
さりとて指標や評価という場合 どこかで客観的と認められる数字的な物を導入しないと指標として成り立たないのではないか
という根本的あるいは前提の問題があるのではと感じています
いずれにしても この評価は困難をきわめる問題であることは間違いのないところだという事はわかります
まったく別の 例えば国民の幸福度(感)が高いのは**国である といったものが指標とはならないのでしょうか