今 研究の現場では AIに対して単なる容認でも排除でもなく 批判的かつ倫理的に活用するための枠組み作りが検討されているという一文に出会いました
アリゾナ州立大学のポール・ケイ・マツダ教授による日経新聞への寄稿を興味深く拝読しました
教育現場では書く過程そのものが思考であり 問いを立て 資料を選び 角度を定め 構成を練り直す中で知識は形づくられる
すなわち 書くという行為は考えを生成し練り直す営みである とまず整理されています
そして 生成AIは文法や語法を整え 表現を洗練し文章構造を提案することができ
既存の情報を集めて整理し 発想を広げ 見落としていた視点を示す事もあるが
どの問題が重要かを見極め どの資料を採用するかを判断し どの方向にどのような立場から発信するのかを決めるのは書き手自身である
と述べられています
研究者や大学院生は自らの名で論文を発表し その内容に責任を負う高度な知的労働者であるから
発表した論文に誇りを持ち 名をもって責任を引き受けるものであるからAI時代であっても それは当たり前です
それでは 研究者でない 一般の大学生や社会人はどうかというと
問いを立て情報を見極め 自らの判断を言語化する力は 分野を問わず求められる
研究者でなくてもそうした知的活動は必要とされると言われています
生成AIは 少なくとも現時点では こうした知的活動を補助する技術にすぎないのであり
そもそも自ら問いを立て構想を組み立てる力がなければ AIを使ってキレイな文章をつくっても説得力のある文章にはならない
自分の力を大きく超える文章が生成されたとしても
それが本当に理解できている内容なのか 自分の立場や価値観を整合しているのかを見極められなければ使いこなすことはできない
もっともらしい文章を生み出すAIは安易な近道になり得るであろうが
完成した文章は 自らのアイデンティティーや知的責任を体現するものでなければならないのであるから
表面的に整っているだけでは足りないのである
生成AIと人間は対立する存在ではなく 連続体の中で 役割分担しつつ成長していくものであるべきである
マツダ教授の一文を拝読して ともすればAIの出力してくる成果に圧倒され巻き込まれ 自信をうしない 全面的にたよってしまう という現状に陥りそうになっている自分を見直し
いくらAIは自己学習して発展するからといっても
人間として自らの問いかけと結果の情報が見極められる あるいは見極めなければならない存在であることに誇りを持てる存在であることにこだわりたい と思いました
私たちは仕事の現場でAIを利用する立場にありますが 目の前の報告書などがキレイに整っていればよい とばかりに AIを便利使いしていては
そのうちにAIを使った自分の報告書が理解できなくなって 自分を見失いふりまわされてしまう
そのようにならないためにも たとえ研究者でなくても(研究者でないことを隠れ蓑にすることなく)
自身の問いかけを忘れず 結果を見極められる存在でありたいと思いました