2011年、東日本大震災の時 

糸井重里さんは「できることをしよう」と呼びかけた と聞きました

何もしないというのではなく 

しかし持てないような重荷を負おうとするのでもなく

それぞれの居場所で 自分にできることをすればよい

そのような呼びかけであったと思います

この3ケ月近く ニュースを見ても新聞雑誌をみてもウクライナ侵攻の話がない日もないところもありません

かの地で考えられないような残虐なことが起こっていること自体信じられない思いをしつつ

でも それが現実であることは間違いなく

安全なところでそれをまるでドキュメンタリー番組を見ているようにテレビの画面を見つめていたり

一人前に批判的な言葉が頭に浮かぶことに 馴れてしまいつつある自分に気付き

どこまでも他人事として見聞きし 何をすればよいのか立往生し 結局何もできなくて

そのような自分を感じることがだんだん耐えがたくなって

気が付けばそのようなニュースから目を背けている

でもせめて気持ちだけはよりそいたいと ともすれば目を背けようとする自分を叱咤する

そんな毎日に「できることをしよう」ということは

「無理しなくてもいいんだよ」といたわってもらえたような そんな気がして

少しは静かに呼吸ができるような そのような慰めを感じました

私たちの年代の者は むかし両親や祖父母から戦争中の話を聞くこともありました

小さな平凡な日常を問答無用で奪い去り 

大きな流れの中で命のやり取りである戦争に駆り立てる力が働く 

そのような出来事があったと だから戦争など二度とあってはならないと

繰り返し教えられたように思い 私は絶対流されることなく戦争には反対するのだ と思っていました

でも 今回のウクライナを見聞きして

自分が「戦争はしない」と決意し そのような決意を全世界の人が持てば戦争は起こらない というのは

少し人が良すぎたかしら と感じざるをえない気がしています

だから やられる前に攻めろ とは思いませんが

しかし自分の家族や未来を担う子供たちを守れる力を持って

はじめて戦争してはいけない という言葉に力がこもるのかもしれない と思い始めています

ウクライナの人々の小さな幸せ 日常のためにならば 少しくらい自分の生活が厳しくなっても大したことはない

大いに協力したい と本気で思います

多分たくさんの人々がそのような感じていると思います

この優しい気持ちが集まりとなって奇跡を呼ぶことを(甘っちょろく)願います

しかし 半面この本来は優しい気持ちだったものが暴走してしまわないような冷静さも忘れないようにしないということを

流されそうになった時なくしてしまわないように大切に持ち続けたいとも同時に思っています