桜ノ宮高校の生徒の体罰を原因とする自殺事件以後 体罰についてニュースで目にすることが急に多くなったようです。

この高校だけでなく、スポーツの現場では 体罰は認められてきたのではないか という気がします。

最近でこそ声は小さくなりましたが、体罰容認の声もよく聞きました。

いわく「多少の体罰は子供のためには必要である」

「体罰禁止といわれて、先生が生徒を敷かれないようでは困る」・・・等々です。

私は体罰は絶対に認められないと思っています。

手を上げないと言うことを聞かせられないということは、教育する立場のもの(親や教師)としては失格だと思っています。

手をあげなくても、教えたり指導したりすることはできるはずで、できないというのは工夫の足りなさ、経験の乏しさだと思っているからです。

DVや家庭内暴力の問題でよく言われるのは、DVの加害者は過去においてDV被害者である人であることが多いらしいです。

きっと、強くするために、あるいは言うことを聞かせるために体罰を加える人は、自分が選手だったときにそのようにされてきた経験があり、

そのように”鍛える”のが当たり前だ、あるいは良い方法だと思っている人だと思いjます。

また、その人にとっては、それは体罰であるという認識すらなかったかもしれません。

半世紀近く前の東京オリンピックで脚光を浴びた女子バレーボールの選手に対する当時の女子バレーボールチームの大松監督の課した過酷なトレーニング(しごといわれてました)に対して

これは行き過ぎではないかという質問が当の選手たちにされた時の答えがいまだに耳に残っています。

彼女たちは「金メダルをめざして、練習に取り組んできたのでつらいとかしごかれていると思わなかった」と答えていました。

その答えを聞いて、罰として無理やり苦痛を強いられるのは体罰であっても、自分が金メダルを目指して積極的に過酷なトレーニングをするのは苦痛でなく体罰でない、

ということだと子供心にわかった気持ちになったことが思い出されます。

精神的な心の持ちようにかかわることですから、外見から見てどちらかはわかりませんし、昨日までは達成感すら味わえるようなトレーニングがある瞬間から苦痛なしごきに変わるおちうこともあるでしょう。

また、大人になってからの心で思い返すと、そのようにしか答えようがなかったという大人の世界もあったかもしれません。

でも、その大人のずるい心を持ってしても、無理やり人に苦痛を強いることは やはりいけないことであると思わざるをえません。

同じことをするにしても、積極的に自発的に取り組む心の持ちように導く やはりこのような指導者を求めたいと思います。